1852年から1870年まで、豊原国周を名乗るまでの画姓変遷、年玉印以外の落款、大首絵、大顔絵、ミディアムショットなどの構図、感情表現、誇張と省略の漫画、ストーリテーラーなどを論じた。 ここの第一章では、主に豊原国周が活躍した時代の検閲印制度(改印、極、干支)の変遷とそれの基づく国周の作品発行年確認調査を行った。その過程で、公開されている作品の発行年の修正などを論じた。
第1章 検閲印の変遷と発行年確認調査
国周の作風や活動を調べる目的で初期の作品を時系列に並べる必要がある。初期の活動として、1850年代から1875年頃までの範囲で公開されている作品を捜しだし、それの発行された年を特定した。彼が活躍していた時期は浮世絵、草双紙の絵、団扇絵などはすべて検閲されていたので、この情報から国周の作品を時系列的に並べることができる。しかし、検閲の情報が不足または不明なために発行年の特定が判断が困難な事がある。岩切友里子(11)は天保の改革による役者絵の規制があったことを記述している。このことから、役者名と配役名の併記も年代判定に役立つと考え、浮世絵、団扇絵に書かれた情報も調べた。また、役者名が記載されている場合、役者の名乗り期間が分かっているので、この情報が描かれた浮世絵の年次判定に役立つ。もちろん芝居小屋の興業日報(歌舞伎年表(12))も役立つ。検閲印、情報記載内容、役者の存在のような情報を調べて、具体的に発行された年を特定した例をいくつか報告する。 国周の作品は、浮世絵検索、早稲田大学演劇博物館、ARCポータルデータベース(立命館大学)、ボストン美術館、大英博物館、東京都立図書館、国立国会図書館デジタルなどで検索して選び出した。1-1)検印制度の変遷には浮世絵、団扇絵、本の挿絵に関する検印制度の変遷とそれぞれの時代の印影と多様に変化した干支の文字などの例を上げて、年代判別の根拠としたデータを示した。1-2)配役名と役者名の併記に関してでは、天保の改革で規制された役者絵の規制が緩み、配役名と役者名が併記される様になった時期が、国周の作品の発行された時期の判断に役立つ時期だったので、浮世絵と団扇絵を調べた結果を論じた。1-3)浮世絵発行年の特定に関してでは、保有機関が判断したそれぞれの作品の発行された発行年が以上に述べた情報と異なった結果になった作品に関して論じた。
1-1 検印制度の変遷
Basil Stewart(13)、石井研堂(7)、原色浮世絵大百科事典第3巻(8)、高橋克彦(14)などが検閲印の歴史や印影を報告している。ここでは、浮世絵の検閲印情報は石井研堂の分類を基本として、他の資料と豊国IIIの作品及び国周の作品の検閲印情報を加えて整理した。また、団扇絵の検閲制度に関しては、石井研堂の資料を参考にしてまとめた。検閲制度は明治8年9月3日(1875年)改訂の新出版条例第21条によって氏名、住所、出版日だけを記すこととなり、それまでの検閲印がなくなった。そのため、それまで使われていた改印の情報は記載されなくなった。浮世絵、草双紙、団扇絵に関しては国周が活躍した初期として1852年から1875年までの改印に関して調べた。
1.1.1)浮世絵
江戸時代には検閲制度の変遷があるので、浮世絵に捺印された情報でその浮世絵が印刷された年代が推定出来る。時代によって、検閲印様式が違っているので、石井研堂は次のように8期に分けている。国周が活躍した時期は第5期から第8期とそれ以降になる。
第1期 極印の時代 1791~1842
寛政3年から天保13年(1791年-1842年)の期間で、「極」と捺印され、検閲された物であることを示している。図の丸印が極印であり、出版年を判別することは困難だが、この期間の出版であることは判断できる。この期間に干支月印、行事印が捺印されたこともある。極の印影は具体的に1.1.2)団扇絵の項、第7期の洲濱印に、多様な極の文字を示した。
第2期 名主の単印時代 1843~1847
天保14年から弘化4年(1843年-1847年)の期間で、検閲した名主の印がひとつ捺印される。石井研堂は14名(普勝、田中、馬込、濱、吉村、米良、竹口、衣笠、村松、高野、福島、村田、渡辺庄右衛門、渡辺治右衛門)の名主を確認しているが、原色浮世絵大百科事典第3巻(9)のP129では渡辺治右衛門を抜いて13名としている。例は衣笠房次郎の捺印。
第3期 名主2人、双印の時代 1847~1852
弘化4年から嘉永5年(1847年-1852年)の期間で、検閲が2人で行われた。名主は9人(濱、馬込、衣笠、村田、米良、福島、村松、吉村、渡辺)存在した。例は濱と馬込の印だ。
第4期 名主両印と干支・月印の3印が押された時代 1852~1853
嘉永5年2月から嘉永6年11月(1852年2月-1853年11月)の期間の様式である。この例は、名主印として衣笠と村田の2つの印と、干支・月印(子年/八月)が捺印されている。名主印は丸印で字数が多いから、第五期の改印と判別しやすい。この期間は、子年と丑年である。
子8月 衣笠 村田 丑1月 濱 馬込
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次に主に、1847年から1852年に登場した名主印の9人の印影を例示する。
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第5期 干支月印と改印の2つの印が押された時代 1853~1857
嘉永6年12月から安政4年12月(1853年12月-1857年12月)の間の様式である。この例では、楕円形の干支月印(寅年二月)と丸い改印が押されている。この期間は丑年、寅年、卯年、辰年、巳年である。この1856年の辰の印影は変化が少ない。
上の例では(寅年、12月)印と改印が捺印されている。その他の年は次のような印が押されている。
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第6期 楕円干支月印だけの時代 1857~1858
安政4年12月から安政5年11月(1857年12月-1858年12月)の間の様式である。この1年間だけは、干支/月印だけとなった、この例は午年九月の発行であることを示している。この期間は巳年と午年が該当する。この巳の印影も字体の変化は少ない。
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第7期 干支月改を書き入れた単印時代 1859~1871
安政6年正月から明治4年(1859年1月-1871年)の間の様式。干支は12年周期となるが子年、丑年、巳年、午年などは変化が小さい。戌年、亥年は同じ年でも変化が激しいし、全体に12年も経つとかなり字体は変わっていた。この期間には例に示すように、たとえば左半分に「改」が書き込まれ、右の上に「子年」、右の下に「4月」と書き込まれた。
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第8期 円形干支月印の時代 1872~1875
明治5年から明治8年(1872年-1875年)の時代であり、第6期と内容は同じになるが、第6期は楕円の印影だが、この時代は丸い印影になる。さらに、自由に其の他の情報を彫り込んだと思われる印も見られる。明治5年(1872年)は特徴的な印を使用している。羊年とも申年とも思える彫りに見えるが、羊ではなく、壬申(みずのえさる)で十干十二支の表現である。この表現では、壬申は60年の周期で、この場合は1872年を意味している。
1873年から法整備が整う1875年までは、この検印制度が曖昧に成る。つまり、これまで使われていた「改」の文字がなくなり、干支と月を示す文字が捺印されるが「月」の文字が大きく変化し、必ずしも「月」を表してはいない印象を受ける文字が刻まれている。歌舞伎の興業日報のようなもので公演の年月日が特定されても、「月」を示す文字がその月にはどうしても読めないものなどが多数出てくる。明らかに月の文字は上演された前月としか読めない文字もあり、上演と印刷がずれたように考えられた印影もある。この期間、捺印の特徴は(1)改の文字が無い、(2)干支ははっきりしているという情報である。この特徴から描かれた年だけははっきりと判断できる。
以下に、1873年から1875年までに関して、月の表示がこれまでの流れから妥当と思われる捺印を例示した。しかし、この期間はかなり変化が激しく、月の数では無い何かを表しているような文字のものが多数見られ、判別不能なものがある。保有機関の略は演博:早稲田大学演劇博物館、BMFA:ボストン美術館、東京:東京都立図書館であり、その後ろの番号はアクセス番号である。
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第9期 1875年以降
明治8年9月3日(1875年)に改定された新出版条令第21条で氏名、住所、出版日などを記載することになった。この例では錦絵の枠外に 御届明治十七年 出版人武川清吉 彫銀 などと記載された。この時代の年を表す漢字で「二十三年」を「廿三年」、「三十五年」を「卅五年」と表記している。
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検閲規制に基づく改印の変遷を以上のように9期に分けて説明したが、具体的に干支や月の表記文字などに関しては次に述べる。国周は1835年に生まれ1900年に亡くなった。彼の作品が最後に摺られたのは1903年だった。この期間に関して、石井研堂の改印様式、西暦、元号、12支を表1に整理した。12支を判別できれば、西暦年を絞り込むことが出来る。江戸時代は太陰暦を用いていたため太陽暦との誤差を閏月として補正していた。その閏月情報は国立国会図書館インターネット資料収集保存事業のサイトから入手して整理したものを示す。
次に印影から12支と月を読み取ることになるが、漢字がわかっていても干支の文字は特長を生かしたり、篆刻の文字を変えたりしている。月の文字は篆刻文字の特長を生かして画数を減らしたり、デザイン風に変えている。12干支に関しては、石井研堂は篆刻、七つ伊呂波、風月往来、古版七ついろはの文字を参考ににすると読み取れると述べている。錦絵の干支を読み解くのに参考になると思われる、変形したりデザイン化された文字を表2にまとめた。さらに、表3には1852年から1875年までの24年間の浮世絵で使用された干支文字の変遷を示した。1852年から1858年までは楕円形の印に文字が彫られていた、1859年からは丸印の中に干支文字が彫り込まれていた。この表3を見ると干支文字が12年も経過すると字体が変わっていったことがわかる。特に大きく変化したのは戌年と亥年だ。実際に錦絵に出てきた12干支のうち特に判読が混乱しそうな戌年(戌年)、亥年(亥年、猪年)の刻印を表4にまとめた。
1859年から1875年までの間で干支が重なるのは1859年の羊年以降になるが、幸いに1872年から先に述べたように「改」の文字が無くなるのでどの年の作品かを判断しやすい。しかしながら1859年、1871年の羊年だけは区別が困難だが、ここに示したように字体が違っているのが有力な判別根拠となる。また、干支が彫られる場所も印影の中の右上とは限らない。牛、午の文字もかなり変形する。更に、すでに述べたが、明治5年からは検閲がなくなり、届け出だけとなった。
表1 石井研堂の改印様式 西暦と元号対照 12支 閏月 に関して
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表2 変形した干支文字
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表3 浮世絵に出てきた干支文字
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表4 戌年と亥年を表す文字の実例
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表5 月を示す文字
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月の文字も実際に記載された印影を表5にまとめた。月は数字で表現されるが、その文字は変形し、彫刻の技術を誇示するが如く修飾されている。表5の左側の文字は1850年の表現で、右側は1875年に近い時代に使用された文字である。しかし、凝りすぎて解読不明な例もある。
一月は”一“を用いず、正月の”正”を用いている。それ以外は漢数字をを変形させている。4月と6月は上に点があるかないかの差になるデザインがありこれだけでは何月か結論が出ないケースもある。しかし時代によって、書き方が一定している。改印の文字はほとんど変化しないので、わかりやすい。大半は左半分に描かれるが、時として左右に分けて間に他の情報を入れたりする例もある。
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表6 改めの文字
1.1.2) 団扇絵
干支の文字は、浮世絵と異なる印影もある。具体的には、団扇で使われた干支の文字は、この第7期の洲濱印の印影として示した。この分類は石井研堂の資料を用いた。
第一期
団扇の絵の検閲に関しては、始まりがはっきりしないが、最も古いのは文化8年(1811年)がある。改印だけの時代。
第二期 (1815-1821)
楕円の形をした印影で、干支と改めの文字が書かれていた。
第三期 (1822-1843)
二つのケースがある。一つは干支、極の二つの印が捺印される例であり、二つ目は干支と改が一つにまとまった楕円の印が捺印された例である。
第四期 (1843-1852)
名主の印が1つまたは2つ押された時代。名主印は浮世絵の項で述べたものと同じである。この参考例では米倉の文字が裏表反転している。 米倉 と 村田の捺印がある印影の例は、7~9頁を参照のこと
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第五期 (1852-1853)
名主印が2つと改印の3個が捺印された時代。この例では、福島と村松との2つの名主印が捺印されている。干支・月を示す洲濱印は丑年2月、つまり1853年2月を示している。その下の示した洲濱印の例は、1852年の子年5月と1853年の丑年8月の印だ。
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第六期 (1854-1858)
改印と洲濱形に干支・月を書き入れた印の二つが押された時代。
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第七期 (1858-1872)
洲濱形に干支と極の文字を入れた単印の時代
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洲濱印の例を示すが、いずれも左側に「極」が描かれ、右側に干支が描かれた。
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1.1.3) 挿絵関係
国周の初期の作品として、1855年から1870年までの調査結果だけを述べる。草双紙に描かれた絵は必ず検閲を受けていた。その様式は浮世絵の様式と全く同じである。つまり、第五期(1853-1857)は干支月印と改印の二つが捺印され、第六期(1857-1858)は干支月印だけ、第7期(1859-1871)は干支月改印が捺印されていた。印影も全く同じである。草双紙やそれらを1冊にした合巻本では、序文にいつ発行したかなどが記載されているが、多くの場合、そこで示された年よりも絵を検閲した年が前の年になっている。つまり、絵を描いて検閲してその翌年に発売したと考えられるケースがある。連続の物語で数年にわたって発売された物などにもこのような例が見られた。
1-2 配役名と役者名の併記に関して
1.2.1)浮世絵のケース
1842年6月から天保の改革で役者絵、遊女芸者風俗の錦絵は出版禁止された(11,p68)。そのため芝居絵、源氏絵は消え武者絵や忠孝武勇烈女賢婦教訓などの題目へ変わった。「1845年水野忠邦は老中職を罷免され、役者絵の禁令は次第に緩みを見せ弘化3年11月(1846年)には、役者の名前を記さなければ役者絵の出版が認められるようになった」(11,p104)。以上の事から約1842年から約1860年までの期間は役者絵は発売されなかったらしく、世界中の美術館でも歌舞伎芝居絵に役者の名前を書いた絵はほとんど公開されていない。ただし、この期間でも1852年中村歌右衛門、1854年八代目市川団十郎、1855年坂東しうか、1860年4代目尾上菊五郎などの追善絵だけは例外として多数残って保管されていた。
そこで、配役名と役者名を併記した浮世絵はいつ頃から出てきたのかを知ることで、描かれた役者絵の発行された年の判別に役立つと考えた。岩切由里子は「国芳」(11)の本の中で、「1863年には自由に併記できた」と述べているのでそれ以前の前提で調べた。三代豊国が多くの役者絵描いているので、1859年~1861年の期間として早稲田大学演劇博物館所蔵の浮世絵を調べた。年代決定は、前に述べた(1)改印、干支月印を調べて発行年を確認し(2)名跡が空席ではなく役者が存在したことの条件を確認して保存枚数を調べた。早稲田大学演劇博物館、ARC ポータルサイトの作品であっても明らかに干支が違う物などは除いた結果について述べる。
1859年に発表された「油屋おこん 沢村田之助」羊年6月のように、配役と役者名が記載されている。もう一人は役者名「河原崎権十郎」の記載がある。この程度の記載が、850枚中2点だけで、多くは配役名だけだった。
検閲印(羊6月改)、1859年 沢村田之助 豊国III
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1860年の次の絵は「武田勝頼 坂東彦三郎 申年4月」と記載している。1860年では配役は小さく役者名は大きく書かれていた。この錦絵は線がすっきりしていて力強い印象が有りもう少し後の時代の豊国IIIの作品のようにも見えるが、豊国IIIは1864年に死亡しているので1860年の作であると思われる。この絵の改年月印は反転していた。裏表貼り間違えて彫り上げることも在ったと考えられた。
検閲印(申4月改)、1860年 5代目板東彦三郎 豊国III
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以上のように早稲田大学演劇博物館に保管された三代目豊国が描いた錦絵のうち1860年には674枚中3枚だけにひっそりと配役、役者名が記載されていた。ARCポータルでは616枚中配役と役者名記載は17枚あった。
ところが、次に示すように、1861年からは配役名、役者名が別々に併記される例が急増し長く続いた天保の改革の規制から開放された様子が覗えた。次の例では「吾妻の与四郎 河原崎権十郎」、「八重垣ひめ 沢村田之助」と記載されている。このように役者名と配役名を併記する描き方は1861年には普通になっていた。
検閲印(酉11月改)、1861年 河原崎権十郎 豊国III
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検閲印(酉9月改) 1861年 沢村田之助 豊国III
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1.2.2)団扇絵のケース
団扇絵に関しては、国会図書館デジタルに以下の3冊のアルバムが保管されている。数字はアクセスナンバー。
- やくしゃにがほ絵団扇 国会図書館(237-376) 国貞のみ
- 俳優団扇画 国会図書館(237-377) 豊国、国芳、国周、房種
- 団扇画 国会図書館(特56-37) 国周含む 明治中時代
この中で収録年代が広い「俳優団扇画」を用いてその内容を調べた。年代判定は、1.1.2)団扇絵のケースで述べた。国会図書館デジタルで入手したこの資料には豊国、国芳、国周、房種などの人気絵師が描いた155枚の団扇絵が収録されている。収録された作品は第四期(1843年~1852年)から第七期(1858年~1872年)までの作品だった。第四期に関しては1843年から1852年の間ということ以上の特定できない。植物などの絵柄もあり、すべてが役者絵ではない。配役名と役者名の両方が記載されている作品の検閲印を調べたところ、この両方を記載した団扇絵は、1861年、1862年、1863年、1864年、1865年の作品だった。1861年の作品は全160ページの内、35,36,37,38,39,94,103,125,126,127の各ページに掲載されていた。これらにはすべて配役名と役者名が併記されている。具体的には、資料の103頁の豊国IIIの絵には由留木左衛門・河原崎権十郎、小ざくら・沢村田の助のように、配役と役者名が記載されている。1860年の作品はこの資料の全160ページの内、4,23,24,27,28,33,76各ページに作品がある。いずれも例えば牛若丸と浄瑠理姫のように配役名の記載しかなかった。このように、1860年以前は配役名だけの記載であることから、1861年から役者名と配役名を自由に書き込むことができる容易になったと考えられた。
以上のように、役者絵、団扇絵に役者名と配役名を併記することは、天保の改革以降できなかったが、1861年には団扇絵の分野でも、浮世絵の分野と同じように自由に併記するようになったことが窺える。
1-3 浮世絵発行年の特定
国周の初期の作品を調べる目的で時系列に浮世絵を選びだし、その作品の作成年次が正しいかどうかを調べる過程で、一部その保有機関の判断と異なるケースが出てきた。正しいと思われる年次が判断された根拠に関して、ここに述べる。
1.3.1)中村芝翫・白拍子 1871年 豊原国周 早稲田大学演劇博物館所蔵 007-0149
中村芝翫 検閲印(羊8月改)
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①干支月改印
この作品を1859年発行の作品と判定していた保有機関があった。検閲印は(羊8月改)。
国周が活躍した時代の羊年は1835年、1847年、1859年、1871年、1883年、1895年だが、国周は1848年または1851年に三代目豊国に入門しているので、錦絵が描かれたのは1849年以降になる。また、1872年以降はこのタイプの改印は使われずに、年月印に変わった。従って、羊年の1883年以降ではないと言うことになる。このことから、この年月改印情報は1859年または1871年の作品だと言う事を示しているが、これ以上は年月改印では特定できない。
②歌舞伎役者 中村芝翫 配役 白拍子
この役者絵には、役者名は中村芝翫、配役は白拍子とあるので、配役名から道成寺の一場面だ。類似の錦絵では1867年の東生奴道成寺でも似たような場面が描かれている。さて、中村芝翫を調べると、三代目中村芝翫は1836年に名跡を継ぎ1847年に死亡している。四代目芝翫は1860年に襲名し1899年まで活躍し人気のあった役者だ。つまり、1847年から1860年までは中村芝翫の名跡は空席だった。名跡の名乗り期間は立命館大学ARCポータルサイトのデータベース(15)を利用した。またこれ以降、名乗り期間は全てARCポータルサイトを参照した。中村芝翫が活躍していた年は1860年以降の羊年となるので、この作品は1871年の作品だと結論づけられた。
参考までに、中村芝翫が1860年に4代目を襲名したときの浮世絵を紹介する。発行されたのは申年6月とあるので1860年の作品だ。右側は片岡仁左衛門8代目で、 祇園守の紋付きを着ているのが中村芝翫(左)だ。
検閲印(申6月改) 豊国III
③ 役者名と配役名の併記
保存されている役者絵を調べた結果1861年から自由に描いていることはすでに述べた。この絵のように、役者名と配役名を表記する絵は1861年以降ということからも、この絵は1871年の作品である事が分かる。
④ 歌舞伎年表(12) 第7巻
1871年9月に市村座で道成寺一封振袖として、芝翫が桜子、彦三郎が花子役をそれぞれ演じた記録がある。
1.3.2)内篭曽我之対面 1871年 応需豊原国周筆 早稲田大学演劇博物館所蔵 007-1663、007-1664、007-1665
検閲印(羊1月改)
この絵の検閲印(羊1月改)から羊年であり、その様式から1859年または1871年の作品である。月の文字だが、解釈に悩む形をしている。しかし、この文字が10月とは理解されない、1月の変形だと考えられた。1月を示す形で、これに類似した頭が丸い「正」がある。また、演目「曽我」の演目は正月公演が多い事からも、1月と考えられる。
さて、この絵がいつ発行されたのかに関しては、二つの点から興味がある。一つ目は画名であり、この絵には「応需豊原国周」と記載されている。国周は1858年までにいくつか作品を発表しているが、一鶯齋国周、花蝶楼国周などの画名を用い、豊原の画姓は使っていないので、初めて豊原を名乗った作品かもしれない。現在、浮世絵の世界では「豊原国周」と認識されているが、デビュー当時の作品では一鶯齋国周と名乗っている。挿絵の分野では国周は1856年に歌川国周を「義仲勇戦録」で名乗っていたが、この画名である「歌川」は浮世絵の分野ではほとんど使用していない。浮世絵の分野でいつから、「豊原国周」と名乗り始めたのかを確認する上で重要な事項になる。二つ目は「応需」という点だ。「応需」とはスポンサーが付き依頼されて描いたと言うことを意味している。すなわち絵師として人気があった、また高い評価が得られていた事を示す。もしこれが1859年の作品であればデビュー間もない頃に既に人気が確立されていたことを示すと考えられる。「応需」に関しては、1863年の「宅開酒宴之図」が最初と考えられる。この絵が1859年であれば、考えられていたよりももっと早く人気が出始めていた、または、認められていたことを示すことになる。以上の2点、豊原国周の名前の使用時期と応需作品の時期に関しては、国周の初期の活躍、評価を考察する上で重要だ。
この絵に記載されている配役と役者名からも作成年を決定できるはずだが、次に示すように、1859年ではつじつまがあわない。1859年に中村芝翫、市川左団次の名を名乗る役者は不在なので、1871年の作品と判定したい。しかし、服部幸雄著”市川團十郎代々”(16)によれば、1871年には河原崎権十郎を名乗る役者がいない。そこで、1871年頃から1874年までの浮世絵に、この名前が出てくるかを調べた。
役者 | 1859年 | 1871年 |
中村芝翫 | 空席 | 4代目(1860年襲名~1899) |
河原崎権十郎 | 初代(1852~1868) ~1874年 | |
市川左団次 | 存在しない | 初代(1864年から~1904年) |
訥升 | 2代目 | 2代目 |
三津五郎 | 5代目(1856~1872) | |
翫雀 | 2代目(~1861) | 3代目(1861~1881) |
彦三郎 | 5代目 | 5代目 |
菊五郎 | 4代目(~1860) | 5代目(1868~) |
服部幸雄によれば、河原崎権十郎は、1852年から1868年まで、この名前で活躍し、1869年3月に河原崎権之助を襲名、1873年9月に河原崎三升へ改名。1874年7月以降のその年に九代目市川團十郎を襲名したとある。そこで、浮世絵検索などのデータベースを使って役者名を検索すると、当然だが、1860年代は権十郎、1870年代に入ると河原崎権之助、河原崎三升の名前で役者絵が出てくる。
しかし、1871年から1874年まで河原崎権十郎の名で描かれた役者絵があった。次に1872年の作品で河原崎権十郎が描かれた絵を示した。この作品の検閲印の左側が何を意味しているのかわかりにくいが「改」の字と思われる。右側はこの年だけ使われた特徴ある十干十二支の表記で「壬申」をデザインした物が用いられているので1872年だ。1874年の絵も紹介する。この絵の検閲印は1.1.1)の第8期1874年戌年2月の例として既に示した。このように権十郎の名前は改名した後も浮世絵では使用されている。名前が使用されなくなってからも市井では使用されることがあったと考えられる。しかし、それ以降の1875年では、権十郎の役者絵は出てこなかった。
服部幸雄の記述通りに役者の名前は公式には変わっていったが、高い人気のあった昔の名前「河原崎権十郎」はその後も使われたのではないだろうか。そうなると、絵に出てきた役者全員が1871年に活躍していたことがわかるので、内篭曽我之対面の絵は1871年の作品だと考えた。
歌舞伎年表(12)には、1859年1月中村座で魁道中双六曽我、2月市村座で小袖曽我薊色縫、また1871年1月守田座で三国一山曽我鏡の記録があるが、役者名、配役名の詳細が記載されていないので、判断の参考にはならなかった。
検印が特徴的な1872年の作品 東京都立図書館 N212-014
板東彦三郎。河原崎権十郎、中村訥升、尾上菊五郎、中村芝翫
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1874年 河原崎権十郎 ボストン 11.41668 戌年2月
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1.3.3) 勇肌磨腕揃 1871年 豊原国周 早稲田大学演劇博物館所蔵 007-1055, 007-1056, 007-1057
彫り物をした若衆の3枚続。この作品の年次は検閲印の形式から1857年から1871年までの可能性が有り、その中で羊年は1859年と1871年だ。先にも述べたようにこの作品は「豊原国周」を名乗ったので年次を特に丁寧に調べた。
豊原国周 無記名 国周 検閲印(羊6月改9 検閲印(羊6月改) 出版万屋孫兵衛 出版万屋孫兵衛 実田齢松刀 実田齢松刀
検印は羊年、6月、改の印影である。
①役者名、配役もないこのような絵は、天保の改革中という見方もできる。ただし、配役名だけの浮世絵は1861年以降でも描かれていたのでこのことだけでは何も判断できない。
②この絵を早稲田大学演劇博物館は最終決定していないと言うが、絵には描かれていない役者名を記載している。9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎、2代目澤村訥升、4代目中村芝翫、6代目坂東三津五郎、5代目坂東彦三郎としている。しかし、その役者名が正しければ、1871年の作品でなければ役者名が揃わない。5代目尾上菊五郎は1868年に襲名し9代目市川團十郎は1874年に襲名しているので、1858年には不在。一方、6代目坂東三津五郎、5代目坂東彦三郎は存在していた。
③もう一つ、この絵の版元は万屋孫兵衛だ。そこで、ARCポータルサイトで国周と万屋孫兵衛の出版関係を調べてみた。ARCポータルサイトには浮世絵293作品が保管されていて、最初は1865年に3点あり、この後、1883年まで安定して出版されていた。1874年がピークだが1871年は出版枚数が少なかったようにも見える。出版数の推移を表に示したが、この表を見ると、収集上の問題があるので偏りがあるのかもしれないが、1859年に万屋孫兵衛が本作品を1点だけ出版したと考えにくい。1871年の作品ならあり得ると考えられた。
④干支の羊の字体だが、Table3で示したように、羊の字体は時代で変化している。この変化は、石井研堂も認めているが、この作品に捺印された羊の字体は1871年の字体と判断できる。
万屋孫兵衛の国周作品出版数
和暦 | 西暦 | 作品数 |
元治2年 | 1865 | 3 |
明治1年 | 1868 | 35 |
明治2年 | 1869 | 63 |
明治3年 | 1870 | 22 |
明治4年 | 1871 | 6 |
明治5年 | 1872 | 27 |
明治6年 | 1873 | 37 |
明治7年 | 1874 | 73 |
明治8年 | 1875 | 24 |
明治16年 | 1883 | 3 |
⑤歌舞伎年表(12) 第7巻、1871年3月に守田座と市村座合併興行として演目「名大津画劇交張」があり、役者名に「芝翫、訥升、三津五郎、羽左衛門、権之助など11名が記載されている。
以上のことから、この浮世絵は1871年羊年の作品と判断した。
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1.3.4) 真柴久秋 石川五右衛門 1867年 国周筆 早稲田大学演劇博物館所蔵101-0829、101-0828
1860年に分類されていたこの作品は、この絵では見にくいが、左側の絵の国周筆の上に検閲印が有り、それは(卯4月改)だった。従って、1867年の作品だ。また歌舞伎年表第7巻に1867年2月中村座で演目「石川詣真砂詠悪」を真紫久秋が石川五右衛門演じたと記載がある。
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1.3.5) 豪傑奇術競 1873年 豊原国周筆 国会図書館デジタル所蔵 本別7-537
豪傑奇術競として揃物で5枚ほど国立国会図書館に保存されていた。いずれも役者名と配役がわかるように記載されていて、天保の改革による規制が緩んだ事を示している。顔の描き方は丸みを帯びて漫画っぽい印象を受ける。国立国会図書館では、この5作品を1861年に分類していた。しかし、検閲印は浮世絵のケースで述べた第8期の様式で、「改」の文字が無く、「酉12月」の印が捺印されていたので、1873年の作品だった。全て検閲印は酉年で版元は八丁堀松栄だ。
豪傑奇術競 児雷也 河原崎権之介 酉年、12月とあるが改がないので1873年と判断できる。
豪傑奇術競 大蛇丸 中村芝翫
豪傑奇術競 天竺徳兵衛 尾上菊五郎
豪傑奇術競 清水義高 市川左団次
豪傑奇術競 綱手 中村宗十郎
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1.3.6) 中村芝翫 1873年 豊原国周筆 Artelino所蔵
この作品は1861年の作品となっていた。出版は勇肌磨腕揃と同じ万屋孫兵衛。検印に改の文字が無く、酉年を示しているので1873年の作品と考える。先に述べた第8期の印影を参照。
歌舞伎年表第7巻(12)、1873年2月中村座、演目「侠客姿錦絵」で中村芝翫が浮世戸平を演じたと記載がある。
この検閲様式は 干支・月印で、改がない。従って、1873年の作品 酉年2月 版元:万屋孫兵衛
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1.3.7) 寿名残嶋台 1871年 国周筆 早稲田大学演劇博物館所蔵 007-1654、007—1655、007-1656
この作品は1859年に分類されていた。検閲印は羊年/4月/改であり、この様式からは1859年か1871年のどちらかである。役者名は五代目坂東彦三郎、1859年であれば4代目尾上菊五郎、1871年であれば5代目尾上菊五郎となる。役者名では発行された年を判定できない。画題に、「亀蔵一世一代」とあるので、これは亀蔵が大当たりした演目だ。そこで、演目「寿名残嶋台」を歌舞伎年表第7巻(12)で調べると明治4年3月初演であることがわかった。この作品は1871年に演じられたものを浮世絵にとどめていたということになる。
検閲印(羊4月改)
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まとめ
第一節
検閲制度の変遷により、(1)印影が楕円形や円形など時代によって違うこと、(2)干支文字が時代によってある程度変化したこと、(3)名主、干支、月、改、極の組み合わせが時代によって異なる。従って、これらの情報で、作品が発行された年が判別できることを示した。それと同時に具体的な印影を示した。
第二節
天保の改革で規制された役者絵の規制が緩み始めた時期がある。つまり、配役名と役者名が併記される様になった時期だ。この時期は国周の作品の発行された時期の判断に役立つ時期だった。浮世絵、団扇絵に配役名と役者名が明らかに併記されるようになった時期が調べられ、その結果、1861年に作品は自由に併記されていることが分かった。もちろん、1861年以降でも配役名だけの作品または役者名だけの作品は存在する。このことから、併記された作品なら1861年以降の作品である可能性が高いと理解できる。
第三節
今後、国周の初期の作品を時系列的に並べて作風等を調べる。デビュー作品はいつなのか、どんな画名を使っていたかなどを調べるためには、正確な発行年を確認する必要があった。しかし、国周の初期作品として保有機関の判断で、発行した年が違っていると考えられる作品が出てきた。そこで、この章で正しいと思われる発行年へと改定した。その根拠の詳細を論じた。